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ひでちゃんのこと。
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最後の更新をしてから、一年半すぎました。
もう更新することはないと思っていましたが、大きな変化がありましたので
こちらにも書いておきたいと思います。

昨年の11月に結婚し、ずいぶんと環境も変わりました。
自分が結婚するだなんて考えてもいませんでしたが、導きとしかいえないような大きな流れの中に乗っているうちにこうなりました。

思えばこのブログの最後の更新をし、私自身もすっきりと先に向かっていける心境になった時に流れがきました。

どう考えてもひでちゃんの導きです。

まず自分の両親、ひでちゃんのご両親、そしてかずこ先生に報告しました。
大きな祝福をいただきました。

これで少しは安心してもらえたのかな、と思います。
感謝でいっぱいです。

最後にかずこ先生からいただいたお手紙を一部をご紹介したいと思います。

* * *

本当に小竹さんが導いたのでしょうね。

導いたというより、ご自分のあなたへの愛を継ぐ人として新しい婚約者の彼を引き連れてきて下さったのでしょうね。

彼の愛を継ぐ人、あなたを託せる人として導いてくださったのですね。

 

(中略)

 

あなたが小竹さんを、ひでちゃんを、本当に愛したからです。

唯一人の人をも、心底愛し得ないような人は、本当の相手と出会うことはないのです。

死が互いを分つような終わり方であっても、本当に純粋に愛を捧げたから、次の本当の愛を得られたのです。

小竹さんへの愛は完成したのです。

大いに胸張って、新しい方を又ひでちゃんにそうであったように、誠実に無条件に捧げる愛を実践して下さい。



 

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生長の家の月刊誌「白鳩」の NO34(12月中旬発売)から
「出会いを聞かせて」というコーナーで連載します。

ひでちゃんとの出会いと別れを乗り越えて今の主人と結婚するまでのエピソードを毎回2ページ、約6回にわたって書いていく予定です。

このブログとは表現がかわってくると思いますが、客観的に読みやすい文章になっていますので、よかったらご覧ください。

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生長の家月刊誌「白鳩」に2013年の1月号から7月号にかけて連載させていただいた原稿をこちらのブログに残しておくことにしました。
私が書いたものを、編集の方がうまくまとめてくださっています。


『白鳩』1月号30〜31ページ

出会いを聞かせて

[タイトル]
やりたいことが見つからない日々から抜け出して

飯田芳実

第1回

[本文]
 十代の頃の私は、周りの友達が恋愛に悩んだり喜んだりしているのを、ただ傍観しているような女の子でした。というのも、私は人付き合いが苦手で、表面的にはやりすごせても相手をちゃんと信用できず、一人でいるほうがずっと楽だったからです。
 そんな風だったから、漠然と「私は一生、ひとりで過ごしていくんだろうな」という気がして、そのことを寂しいとも思わず、むしろそんな自分を清々しいとさえ思っていました。
 恋愛や結婚にあまり興味がなかったかわりに、私はいつも「自分のやりたいこと」について熱心に考えていました。周りに流されず、自分のやりたいことをやって生きていきたい、という思いが強くありました。
 そして子どものころから憧れていた「絵を描く仕事」をしたいと思い、迷わず美術系の大学に進学しました。ところが、大学には個性的な作品を作る人が大勢いて、そうした自分の個性をどんどんアピールできる押しの強い学生たちの中で、私はあっという間にめげてしまったのです。
「やりたいこと」で生きていくのは難しそうだけれど、かといって他に何ができるのか分からず、自信もありませんでした。
 そんな風に悩んでいるうちに、私は次第に元気を失い、大学の授業も休みがちになり、無気力になっていきました。
 なんとか大学は卒業できたものの、何の仕事も決まっておらず、相変わらず不安なままでした。アルバイトを始めても続かず、何もしたくなくなり、家に閉じこもるようになりました。これは「うつ」なのかもしれないと思うようになり、私は親に隠れて心療内科に通いましたが、一向によくなる気配はありませんでした。
 もうどうしようもない、このままでは私は本当にダメになってしまう。そう思った私は、二十歳の時に一度だけ参加したことのある生長の家の大学生練成会を思い出し、平成十八年一月、すがるような気持ちで宇治別格本山の十日間の一般練成会に参加しました。
 練成会で、講師による個人指導を受けると、自分の気持ちをまるごと受け入れてもらえた安心感から、がまんしていた涙があふれてきました。行事を受けていくと、心が急速に浄化されているように感じられ、今までのふがいない自分を少し許せるようになっていました。しかし十日間では足りず、研修生として宇治別格本山に残ることにしたのです。
 はじめて親元を離れて研修生活を送っているうち、私の心の状態をなかなか理解してくれない母に対するわだかまりが消え、母もありのままの私を受け入れてくれるようになりました。そしてあれほどこだわっていた「自分のやりたいことは何か」という問題もどうでもよくなり、ただこの日一日を過ごせることが嬉しいと感じられるようになっていました。
 ひと月が経った頃、新しい研修生が何人か加わりました。その中でひときわ目を引く、都会的な雰囲気の男性がいました。練成会を受けたり、研修生になる人はたいてい大きな問題を抱えています。しかしその人はとても明るく、どこにも問題はなさそうに見えました。ところが、実は彼が一番深刻な問題を抱えていたのです。  (つづく)
『白鳩』2月号30〜31ページ

出会いを聞かせて

[タイトル]
彼の笑顔と明るさに、心が開かれる

飯田芳実

第2回

[本文]
「僕は脳腫瘍なんです」
 新しい研修生の自己紹介で彼が発した言葉に、私は耳を疑いました。病気についてあまり知識がない私でも、重い病気であることはすぐに分かりました。
「こんなに若いのに、どうして……」と、言葉にならない思いが頭をかけめぐりました。
 彼はすでに何度も手術を受けているらしく、頭にある手術痕を隠すためにいつもニットの帽子をかぶっていました。しかし、それ以上に私が驚いたのは、彼の笑顔と明るさでした。
 ご両親の強い勧めがあって東京から宇治別格本山にやってきた彼は、練成会を受けて感動し、両親への感謝、今、生きていることへの感謝があふれてきて、本当は入院していた病院へ戻らなければいけないにもかかわらず、どうしても研修生として残りたいと自分から志願したということでした。
 私は「やりたいことが見つからない」という自分の悩みの小ささ、贅沢さを思い、恥ずかしくなりました。彼の強さに心から頭の下がる思いでした。
 彼は研修生活にすぐに溶け込み、みんなの人気者になりました。誰もが彼が病気であることなど忘れていました。毎朝早くから起きて、早朝行事に参加し、境内のきつい坂を走って上り、大きな声で「ありがとうございます!」と言う姿は、健康そのものだったからです。
 人見知りで自分からは人に声をかけることのない私にも、彼はいつもにっこりと微笑みかけてくれ、たわいのない会話をかわしていました。
 私は今まではそんなふうに男性と話をしても、決して楽しいと思うことはなかったのですが、不思議と彼と話すのは心から楽しいと感じ、少しずつ心を開いていきました。私は彼と一緒に研修生活を送れることが嬉しく、さらに毎日が充実したものに感じられるようになりました。
 宇治での生活のおかげで精神的に安定し、社会に出る自信もついてきて、「何でもいいから自分にできる仕事をしたい」と望むようになりました。今までのような「やりたいことを仕事にしたい」という欲は消え、「私にできる仕事があるなら何でもします。今の私が一番役に立てる職場を与えてください」と毎日の神想観でお祈りするようになっていました。研修生の立場ですから就職活動をすることはできませんが、毎日毎日祈るうちに、「すでにすばらしい職場が与えられた」という確信を得るようになりました。
 するとある日、地元の愛知県の教化部から「職員にならないか」というお話が突然やってきたのです。教化部で職員を募集していたらしく、高校生のころからお世話になっていた生長の家青年会の方が私のことを推薦して下さったからでした。
 思ってもみない展開にとても驚きましたが「ああ、これが祈りの答えなんだ」と納得し、このお話を受けさせていただくことにしました。宇治の先生方もとても喜んで下さり、私は三カ月の研修生活を終えることになりました。両親も私が実家に帰り、仕事を始めることを喜んでくれました。
 荷物をまとめ、愛知に帰る日、研修生の仲間がみな笑顔で祝福してくれました。しかしその中、ただ一人暗い顔がありました。それが彼でした。 (つづく)
『白鳩』3月号30〜31ページ

出会いを聞かせて

[タイトル]
愛知と東京の
遠距離恋愛が始まる

飯田芳実

第3回

[本文]
 無事に仕事も決まって、宇治別格本山の研修生を卒業する私に、彼は残念そうな表情で、
「本当に帰っちゃうんだね」
 と言いました。
 私は、あまりにも大げさに残念がる彼の様子にとまどいました。もちろん私も研修生の仲間と離れるのは寂しかったのですが、やっと自立して社会へ出られる喜びの方が大きかったのです。
 最後に、研修生の仲間一人ひとりのメッセージが書かれた小さなノートを受け取りました。それぞれのあたたかなメッセージに感動しながら読んでいると、最後のページに彼からのメッセージが書かれていました。
「芳実ちゃん、あなたにはいつも癒やしと元気をもらいました。あなたは僕の天使です。本当にどうもありがとう。だから帰ってしまうのがものすごく寂しい。もっと一緒にいたい。でも心から応援し、幸せを祈っています」
 私はこの時、初めて彼の気持ちに気づきました。
 彼は音楽が大好きで、脳腫瘍になる前は、東京で仲間とバンドを組んでいたというだけあって、とても格好いい人でした。しかも誰に対しても優しくて、研修生の中ではアイドル的な存在だったので、私に向けられている視線が特別なものだとは思いもしなかったのです。でも思い返せば、私も彼と話す時間が一番楽しかったのでした。
 かといって、どうしたらいいのか分からず、彼とは最後にメールアドレスの交換をし、これからも連絡を取り合う約束をして、私は愛知県に帰りました。
 愛知に帰って間もなく、さっそく彼からメールがきました。なんでも東京に一時帰宅するついでに、名古屋に行ってみたいので案内してほしいとのことでした。私は少しびっくりしましたが、せっかくなので「いいよ」と返事をしました。
 二人で名古屋の街を歩くのはとても不思議な気持ちでした。そして本当に楽しくて、心から楽しんでいる自分も不思議でした。一緒にいて、こんなに心地いい人は初めてだと思いました。一日中名古屋のいろんな場所をめぐって、帰る時間になり、彼を見送るため新幹線の改札へ一緒に行きました。
 そのとき私は今まで感じたことのない寂しさに襲われました。そして、「私は彼とずっと一緒にいたい。私はこの人が好きなんだ」という心の声を感じたのです。あまりにもその声をはっきりと感じたので、私は突然その場で彼に打ち明けてしまいました。
 彼は信じられないという表情で言葉を失っていましたが、お互いの気持ちを分かり合えたことがうれしくて、私たちはお付き合いをすることになりました。
 彼も間もなく宇治での研修生活を終えて、東京に戻り、治療を再開することになっていたので、私たちは愛知と東京での遠距離恋愛ということになりました。
 この時、私は彼の病気は必ず治ると思っていました。宇治にいた三カ月の間に、不治の病の人が治る話をたくさん聞いていたし、実際に何度も目の当たりにしたからです。「治るからこそ、私たちはこうして出会ったのだ」と信じて疑いませんでした。
 ところが、東京に戻った彼の病状は少しずつ悪化していたのです。
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