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ひでちゃんのこと。
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合掌 ありがとうございます。
益々お元気で頑張っていらっしゃることと存じます。
宇治は中講堂の裏手の大きな大きな金もくせいの木が先達まで、香りを大拝殿の辺り一面に漂わせていましたが、それも終わりかけて、紅葉も色づきを増し、美しい静けさの中に宇治の諸行事は進められています。
秋というのは何か人恋しい想いの深まる季節ですね。
 
先日、久都間繁 講師のブログ「ashikabi」を見ていましたら「悲しみの奥に聖地がある」という一文の中に竹内さんのブログのことがあり、リンク先がすぐ分かり、よませて頂きました。
 
小竹さんとの出会いの(魂の)きっかけは私も知りませんでしたし、その後のことも知らなかったので、“ああ、そうだったのか・・”と、よく分からせていただきました。
 
小竹さんのご家族の愛に満ちた環境にいらしたことも何か“よかったなー”と思わせて頂きました。幸せだったんですね。小竹さんは・・
 
その上、あなたという愛する対象を得て、短い人生でしたが本当にお幸せだったと思うことが出来て、私の心が喜んでいます。
 
はじめは小竹さんの積極的なアプローチからはじまり、はじめはそれほどの気持ちもなかった竹内さんが徐々に魅かれていくようすが手にとるようにわかります。
 
あなたの異性のみならず、人間全体に対して何となく心を開いていず、さして結婚願望もなく、恋人が欲しいとも思わず、生きておられた(ご両親に対してさえも、心を開かずにおられた)あなたの心が、春になってあたたかい太陽とやさしい光とあたたかな風とで、凍っていたものが、とけて、あたたかさを、やさしさを、明るさを、愛を、感じとれるようになられた経緯がよくわかります。
 
小竹さんの愛の力だったんですね。
 
あなたに出逢えた小竹さんも幸せでしたが、小竹さんに出逢えたあなたもお幸せでした。
 
私は夫と遠距離の期間が三年間の間の二年間ありました。
それこそ、逢いたくて逢いたくて声が聞きたくてという、手紙を待って待って、気が変になるくらい、焦れたものでした。
でも私には一緒になれるという未来が約束されていましたから、待てましたが、あなたは彼が東京に帰られてからはお辛かったと想像がつきます。
そしてお別れ・・
 
あなたのご文章をよんで、涙を流し、最後の長田部長のメールのお言葉で、ドッと感動の涙が流れました。長田部長に、お伝えして、二人で又、想い出を話したことです。
長田部長「ashikabi」のこともご存知なくて、ご自分のお返事が出ていることもご存知なかったのですが、私がたまたま見つけて、私がさし上げた手紙までかいて下さって、うれしいことでした。
 
少しでも、あなたのお力になれたことがうれしかったです。
よくのりこえられました。
 
想い出は尽きないでしょうが、ブログにかかれて、一つの区切りになって、さらに新しい一歩がふみ出せますようお祈りしております。
 
深く深く愛された喜びと幸せをかみしめ、感謝して、ますます愛を与える人生を進んで下さい。
益々のご生長をお祈りしております。
再拝
 
十月二十五日
                                  榎本一子


かずこ先生、本当にありがとうございます。
また勝手にお手紙を掲載してしまってごめんなさい。
この手紙で私は改めて幸せな人間だと、思わせていただきました。
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ひでちゃんとのことをつらつら書いてきました。
書いているうちに、こころが安らかになっていくのが分かりました。
私はなんという幸せな恋をしたのだろうと思いました。
 
ひでちゃんとの出会いから別れの想い出は、本当にきれいで、まるで映画を見ているようです。
あの深い悲しみさえ、美しいと思いました。
 
ひでちゃんの死から3年近くたって、やっとこうして、客観的に自分を見ることができるようになりました。
 
ひでちゃんという人は、本当に目がきれいで、純粋で、素直な、そしてとても強い人でした。
そして私の頑な心をゆっくりと溶かしてくれました。
ひでちゃんは私を救ってくれました。
 
このブログを書くにあたり、心がけたのは、ひたすら私の記憶そのままを正確に文字に起こすこと、正直な気持ちで書くということでした。
 
書いているうちに、自分の中だけで納めていたらいけないと強く感じました。
同じ経験をしている人と共有したいと思いました。
また、そうでない人にも伝えたいと思いました。
 
けれども最初はなかなか勇気が出ず、半月ほど公開せずにいました。
 
今年の10月、私はある展覧会に絵を出品しました。
12日が初日で、祝日でした。
ひでちゃんのお父さんとお母さんが大きな花束を持って見に来てくれました。
12日はひでちゃんの誕生日で、私はこの日にひでちゃんのご両親と同じ時間を過ごせたことに感動していました。
幸せな日でした。
 
これはきっとサインなんだな、と思ってその日から公開しました。
 
たくさんの人が読んで、泣いてくれました。
同じ経験をした人たちとも、想いを共有することができました。
これがひでちゃんの望みだったのだな、と思いました。
 
そして、かずこ先生から再びお手紙をいただきました。
私はこのお手紙を読んで、なにか自分の中でひとつ越えられたのを感じました。
ひでちゃんとのこころの距離がなくなったように感じました。
 
きっとひでちゃんと一緒に書いていたんだなあと思います。
 
ひとりではきっとできないと思います。
 
ひでちゃんのお母さんからもメールをいただきました。
 
 
ブログありがとうございます。
よみすすめながら、たくさん泣き、そして今、静かなあたたかな気持ちです。
ひでが私たちの息子にとどまらず、大切なことを伝える存在なんだなあと
嬉しく胸がいっぱいです。
芳実ちゃんのおかげ。ありがとうございます。
 
 
私はなによりも、このひでちゃんのお母さんのメールが最高に嬉しかった。
ひでちゃんが言いたかったことを、ちゃんと私は表現できているか心配だったからです。
ああ、本当によかった、ひでちゃんありがとう、私を選んでくれてありがとうと、感謝の想いでいっぱいになりました。
 
これでとりあえずおわりにしようかと思います。
もちろんひでちゃんを愛する気持ちは変わらず、私はこれからも生きていくと思います。
共に次にすすんでいこうと思います。
 
またなにか思い出したら書くと思います。
まだしまってあるエピソードはたくさんありますから。
 
読んでくださったみなさまに感謝します。
ありがとう。
 
竹内 芳実

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お見舞いのときのエピソードです。
 
ひでちゃんの病室で、一緒にしゃべっていたら、看護婦さんが何か用事でひでちゃんのベッドのところに来ました。
 
私を見て、にこにこしながら
 
「お友達ですか?」
 
と聞きました。
 
そうしたらひでちゃんは、はっきりと
 
「彼女です」
 
と言いました。
 
一瞬、看護婦さんの表情が曇りました。
 
私はその表情で、今ひでちゃんがどんな状態にあるのか悟りましたが、すぐに打ち消しました。
 
ひでちゃんは、まるで自分に確認するように、はっきりと私のことを「彼女です」と紹介してくれました。
 
私も「ひでちゃんの彼女なんだ」と自分に確認するように思いました。
 
なんだか、とても誇らしい気持ちになりました。
 
ひでちゃんにとって私という存在が特別であること。
私にとってひでちゃんという存在が特別であること。
 
その一言で私たちはお互いの存在の意味を確認し、讃え合っていたのかもしれません。
2月28日はひでちゃんの命日。もう3年だ。
 
朝から東京は雨。でもひでちゃんの日だから晴れる、と思った。
京都行きの新幹線に乗る。激しかった雨が止んでいく。雲間から日が差してくる。
名古屋あたりで雲ひとつない晴天となる。
さすがー。
 
新幹線で私が座った席の隣はずっと空いていて、日曜日だというのに誰もこない。
今日はすいているんだな、と思ってトイレに行こうと立ち上がったら、私の隣の席以外はすべて埋まっていた。
 
ああ、ひでちゃんが隣に座っている。
今日は一緒に宇治へ行ってくれるんだね。
ありがとう。
 
京都はやや曇っていたものの、雨の気配はない。
朝、少しのんびりしすぎて宇治に着いたのは1時半。
祥月命日供養祭は2時からで、ぎりぎり間に合った。
 
大拝殿にいる人々の中に、ひでちゃんのお父さんとお母さんの姿を見つけた。
静かに駆け寄る。
 
こんにちは。となり、いいですか。
 
お二人のやわらかな笑顔にほっとする。
またこの日に会えたことに嬉しさがこみあげた。
 
供養祭が始まると、すぐに涙がぽたぽた流れた。
カバンの中のハンカチが見つからない。しかたなく手でぬぐう。
とめどなく流れる涙に、ひでちゃんを想う気持ちがまだこんなに強い自分を改めて発見する。
そして、涙を流せることを嬉しいと思う。
 
ひでちゃんの名前はすぐに読まれた。
また合掌しながらこみ上げる。想い出がめぐる。
聖経も声がつまってちゃんと読めなかった。
 
時折、宝蔵神社に光が差した。
 
供養祭が終ると、黒いスーツをきちんと着た清水さんがいた。
清水さんはひでちゃんと一緒に練成を受けて、同じ時に研修生になって、いつも一緒にいた。
清水さんは今、もう立派に宇治で職員をしている。
 
ああ、また清らかになられたなあ。
東京ですっかり俗っぽい生活に慣れてしまった私にはまぶしく見えた。
 
ひでちゃんのお母さんが近況を話してくれた。
 
妹さんがひでちゃんの導きで宇治の練成を受けたこと。
そして横浜へお嫁にいったこと。
ひでちゃんが大好きだった犬のぷりんちゃんが昨年亡くなったこと。
 
そして4人でひととき、ひでちゃんとの思い出にひたった。
 
ひでちゃんのご両親はきのうから京都に泊まっているそうだ。
「久しぶりの新婚旅行」
と笑って言っていた。
 
清水さんと別れ、京都駅まで一緒に行くことにした。
電車の中で、ひでちゃんのお母さんが、ぷりんちゃんの最期のことを話してくれた。
私もぷりんちゃんには何度か会った。
ひでちゃんもよくぷりんちゃんのことを話していた。
 
じゃあ、今はひでちゃんと一緒にいますね。
 
ひでちゃんも向こうでさみしくないかもしれないな、と思った。
 
「よしみちゃんが描いていたあの“たそがれ”の絵ね」
突然、ひでちゃんのお母さんが言った。
 
「オレンジ色のカーテンを小さな人がこちらから少し開けて見せてくれているでしょう。
あれを見た時、この小さな人は、ひでちゃんだと思ったの」
 
ひでちゃんはオレンジ色が好きで、自分の部屋のカーテンをオレンジ色にしてほしいと、言っていたんだそうだ。
 
「こちら側にひでちゃんがいたから、ああ、ひでちゃんはこっちの世界と向こうの世界を自由に行き来できて、少しだけカーテンを開けて、私たちに向こうの世界を見せてくれているんだな、と思ったの」
 
ああ、そうだったんだ。
私が描いたのは、ひでちゃんの今の姿だったのか。
描いている時は分からなかった。
ただ、いつもと違う構図が浮かんだな、というだけだったけど、
ひでちゃんが教えてくれたのかもしれない。
 
ブログを見ているから、いつもよしみちゃんに会ってるような気がするよ、と言ってくれた。
ブログ、やっててよかったなあと思った。絵も描いててよかったなあ。

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京都駅についたら、ひでちゃんのご両親が
「そうそう、今日はよしみちゃんに伊勢丹で“タジン鍋”買ってあげるから!」
と言ってびっくりした。
少し前にブログ(ポスティングジョイ)で「タジン鍋が気になる」などとつぶやいていたのをしっかり見てくれていたらしい。
「最近うちでも使ってるのよ!」
嬉しすぎて涙が出そうになった。
 
でもいいのかな、こんなにしてもらって・・と少し恐縮していたら、
「もう、ひでちゃんにはしたくても何もしてあげられないからね、せめてよしみちゃんにはね」
 
箱に入ってきれいにリボンがかけられたタジン鍋。
あ、ひでちゃんからのプレゼントでもあるんだ、と思った。
 
私たちは誕生日とかクリスマスとかバレンタインとか、そういう恋人らしいイベントができなかったから、
今そういうのしてくれているのかな、と思った。
ありがとう、ひでちゃん。
 
タジン鍋を買っていただいたあと、ごはんもごちそうになった。
「よしみちゃんはたくさん食べるんでしょう(笑)
ひでが宇治から一時帰宅した時“たくさん食べる子が好き”って言っていたのはよしみちゃんのことだったんだねえ」
 
笑って思い出を話しながら、私は宇治にいたころのようにたくさん食べた。
 
お二人は京都にもう一泊するということだったので、新幹線の改札まで見送ってくれた。
別れ際にひでちゃんのお母さんが言った。
 
「また5月には家においでね」
 
私はもう毎年のように、5月にひでちゃんの家を訪ねるようになっていた。
ひでちゃんが亡くなってから毎年。
正直、今年はどうしようかと思っていた。
 
もう、いいかげん迷惑なんじゃないだろうか、亡くなった息子の彼女が毎年のように家にくるなんて・・と。はたから見たら未練だらけの女なんじゃないか。
 
私の中でこの3年という月日は長かったのか短かったのか、よく分からない。
ただ、今もひでちゃんへの想いが強くあり、それを大事にしたいという気持ちで過ごしてきた。
それがいいことなのか、ただの執着なのかは分からない。
 
世間は新しい恋をしろと、うるさい。
この先どうするつもりなの?と。
このまま結婚もせずに亡くなった恋人を想い続けて年をとるの?と。
 
先のことは分からない。
分からないけど、社交辞令ではなかった「また5月においで」という言葉に今年も甘えてみようと思う。
 
きっと私には、肉体のないひでちゃんと一緒に過ごす時間がまだ必要だ。
ひでちゃんのお父さん、お母さん、心から感謝しています。

ひでちゃんが亡くなってしばらくの間、私のところにはひでちゃんからのサインがたくさん来ていましたが、それでももっと、彼がそばにいる、という確証が欲しくて、いわゆる「見える」人のところへ何度か行ったことがありました。
 
彼からの具体的なメッセージが欲しかったのです。
 
私は特に見えるわけでも、霊感が強いわけでもなかったので第三者から彼のことを教えて欲しかったのでした。
 
なぜ私たちは出会ったのか、なぜひでちゃんはこんなに早く逝ってしまったのか、私はこれからどうしたらいいのか、答えの出ない問いを追い続けて、誰でもいいから教えて欲しい、という気持ちだったのだと思います。
 
もちろん生長の家を学んでいますから、死はない、ということは知っています。
ひでちゃんは体は亡くなっても生きている、ということも分かります。
 
でもやっぱり悲しいし寂しいし、誰かから「彼はあなたのそばにこういう風にしていますよ」言ってもらえたら、どれほど慰められるだろうかと思ったのです。
 
でも何度かそういう所へ行って聞いてみても、「これはひでちゃんの言葉だ」とは思えないのでした。聞いても聞いても府に落ちないのでした。
 
だんだん、ひでちゃんはこういう形ではメッセージを送らないんじゃないか、他人の口を借りて伝えるのは、きっと好まないのだということが分かってきました。ひでちゃんはひでちゃんのやり方で、サインをたくさん送ってくれているじゃないか、それでいいんだと思えるようになりました。
 
 
時間が少しずつ経って、少しずつ泣く日も減り、普通の幸せな日を過ごせるようになった時、私の中でいろんな伝えたい想いがふくらんで、このブログができました。
 
去年だったと思いますが、ある誌友会でこのブログのことを話したことがありました。
その時の参加者のほとんどは、ブログを読んでくれていて、しずかにあたたかく私の話を聞いてくれました。
 
それ以降はほとんど、求められないかぎりこの話をすることはなかったのですが、今年のひでちゃんの命日が過ぎたころ、あの誌友会に参加していた友達の一人が突然わたしに言ったのでした。
 
「あの誌友会の時、よしみちゃんがブログの話をしていた時ね、彼がよしみちゃんのとなりにいて、“ありがとう ありがとう”って言ってたんだよ」
 
私は彼女に霊感があるなんて全く知らなかったし、彼女も言うつもりはなかったのですが、ずっとその時のことが気になっていたと言いました。
 
「ああ、やっと言えた。よしみちゃんはすっごく守られてるから大丈夫だよ。よしみちゃんのご両親も、彼のご両親もすごくよしみちゃんを想ってる。彼は本当によしみちゃんに幸せになってほしいと思ってるんだよ」
 
突然の言葉に面食らったものの、ああ、これは確かにひでちゃんの言葉だ、と思いました。
 
彼女は、私に初めて会った時から彼のことは見えてた、とも言いました。
 
ひでちゃんはきっと、彼女に自分が私のそばにいることを伝えてくれ、とは言っていないのだと思います。ただただ、今までずーっとそばで守っていてくれたのだと思います。
 
たまたま彼女に見えてしまったので、私にも教えてくれた。
 
でもそれは私がこの3年間、待ち続けていた言葉でした。
 
ひでちゃんは最初から私を解放して、無条件で愛していてくれた。
だから私も解放しようと思いました。
 
このブログに想いを込めたあとは、自分を解放しよう。
ちゃんと幸せになるように生きていこう。
 
だからこれでこのブログはおしまいです。
ときどきそっと取り出して眺める宝物として大事にしながら、ゆっくり自分の人生を楽しんで生きていきたいと思います。
 
ひでちゃん、ありがとう!
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