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ひでちゃんのこと。
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生長の家月刊誌「白鳩」に2013年の1月号から7月号にかけて連載させていただいた原稿をこちらのブログに残しておくことにしました。
私が書いたものを、編集の方がうまくまとめてくださっています。


『白鳩』1月号30〜31ページ

出会いを聞かせて

[タイトル]
やりたいことが見つからない日々から抜け出して

飯田芳実

第1回

[本文]
 十代の頃の私は、周りの友達が恋愛に悩んだり喜んだりしているのを、ただ傍観しているような女の子でした。というのも、私は人付き合いが苦手で、表面的にはやりすごせても相手をちゃんと信用できず、一人でいるほうがずっと楽だったからです。
 そんな風だったから、漠然と「私は一生、ひとりで過ごしていくんだろうな」という気がして、そのことを寂しいとも思わず、むしろそんな自分を清々しいとさえ思っていました。
 恋愛や結婚にあまり興味がなかったかわりに、私はいつも「自分のやりたいこと」について熱心に考えていました。周りに流されず、自分のやりたいことをやって生きていきたい、という思いが強くありました。
 そして子どものころから憧れていた「絵を描く仕事」をしたいと思い、迷わず美術系の大学に進学しました。ところが、大学には個性的な作品を作る人が大勢いて、そうした自分の個性をどんどんアピールできる押しの強い学生たちの中で、私はあっという間にめげてしまったのです。
「やりたいこと」で生きていくのは難しそうだけれど、かといって他に何ができるのか分からず、自信もありませんでした。
 そんな風に悩んでいるうちに、私は次第に元気を失い、大学の授業も休みがちになり、無気力になっていきました。
 なんとか大学は卒業できたものの、何の仕事も決まっておらず、相変わらず不安なままでした。アルバイトを始めても続かず、何もしたくなくなり、家に閉じこもるようになりました。これは「うつ」なのかもしれないと思うようになり、私は親に隠れて心療内科に通いましたが、一向によくなる気配はありませんでした。
 もうどうしようもない、このままでは私は本当にダメになってしまう。そう思った私は、二十歳の時に一度だけ参加したことのある生長の家の大学生練成会を思い出し、平成十八年一月、すがるような気持ちで宇治別格本山の十日間の一般練成会に参加しました。
 練成会で、講師による個人指導を受けると、自分の気持ちをまるごと受け入れてもらえた安心感から、がまんしていた涙があふれてきました。行事を受けていくと、心が急速に浄化されているように感じられ、今までのふがいない自分を少し許せるようになっていました。しかし十日間では足りず、研修生として宇治別格本山に残ることにしたのです。
 はじめて親元を離れて研修生活を送っているうち、私の心の状態をなかなか理解してくれない母に対するわだかまりが消え、母もありのままの私を受け入れてくれるようになりました。そしてあれほどこだわっていた「自分のやりたいことは何か」という問題もどうでもよくなり、ただこの日一日を過ごせることが嬉しいと感じられるようになっていました。
 ひと月が経った頃、新しい研修生が何人か加わりました。その中でひときわ目を引く、都会的な雰囲気の男性がいました。練成会を受けたり、研修生になる人はたいてい大きな問題を抱えています。しかしその人はとても明るく、どこにも問題はなさそうに見えました。ところが、実は彼が一番深刻な問題を抱えていたのです。  (つづく)
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『白鳩』2月号30〜31ページ

出会いを聞かせて

[タイトル]
彼の笑顔と明るさに、心が開かれる

飯田芳実

第2回

[本文]
「僕は脳腫瘍なんです」
 新しい研修生の自己紹介で彼が発した言葉に、私は耳を疑いました。病気についてあまり知識がない私でも、重い病気であることはすぐに分かりました。
「こんなに若いのに、どうして……」と、言葉にならない思いが頭をかけめぐりました。
 彼はすでに何度も手術を受けているらしく、頭にある手術痕を隠すためにいつもニットの帽子をかぶっていました。しかし、それ以上に私が驚いたのは、彼の笑顔と明るさでした。
 ご両親の強い勧めがあって東京から宇治別格本山にやってきた彼は、練成会を受けて感動し、両親への感謝、今、生きていることへの感謝があふれてきて、本当は入院していた病院へ戻らなければいけないにもかかわらず、どうしても研修生として残りたいと自分から志願したということでした。
 私は「やりたいことが見つからない」という自分の悩みの小ささ、贅沢さを思い、恥ずかしくなりました。彼の強さに心から頭の下がる思いでした。
 彼は研修生活にすぐに溶け込み、みんなの人気者になりました。誰もが彼が病気であることなど忘れていました。毎朝早くから起きて、早朝行事に参加し、境内のきつい坂を走って上り、大きな声で「ありがとうございます!」と言う姿は、健康そのものだったからです。
 人見知りで自分からは人に声をかけることのない私にも、彼はいつもにっこりと微笑みかけてくれ、たわいのない会話をかわしていました。
 私は今まではそんなふうに男性と話をしても、決して楽しいと思うことはなかったのですが、不思議と彼と話すのは心から楽しいと感じ、少しずつ心を開いていきました。私は彼と一緒に研修生活を送れることが嬉しく、さらに毎日が充実したものに感じられるようになりました。
 宇治での生活のおかげで精神的に安定し、社会に出る自信もついてきて、「何でもいいから自分にできる仕事をしたい」と望むようになりました。今までのような「やりたいことを仕事にしたい」という欲は消え、「私にできる仕事があるなら何でもします。今の私が一番役に立てる職場を与えてください」と毎日の神想観でお祈りするようになっていました。研修生の立場ですから就職活動をすることはできませんが、毎日毎日祈るうちに、「すでにすばらしい職場が与えられた」という確信を得るようになりました。
 するとある日、地元の愛知県の教化部から「職員にならないか」というお話が突然やってきたのです。教化部で職員を募集していたらしく、高校生のころからお世話になっていた生長の家青年会の方が私のことを推薦して下さったからでした。
 思ってもみない展開にとても驚きましたが「ああ、これが祈りの答えなんだ」と納得し、このお話を受けさせていただくことにしました。宇治の先生方もとても喜んで下さり、私は三カ月の研修生活を終えることになりました。両親も私が実家に帰り、仕事を始めることを喜んでくれました。
 荷物をまとめ、愛知に帰る日、研修生の仲間がみな笑顔で祝福してくれました。しかしその中、ただ一人暗い顔がありました。それが彼でした。 (つづく)
『白鳩』3月号30〜31ページ

出会いを聞かせて

[タイトル]
愛知と東京の
遠距離恋愛が始まる

飯田芳実

第3回

[本文]
 無事に仕事も決まって、宇治別格本山の研修生を卒業する私に、彼は残念そうな表情で、
「本当に帰っちゃうんだね」
 と言いました。
 私は、あまりにも大げさに残念がる彼の様子にとまどいました。もちろん私も研修生の仲間と離れるのは寂しかったのですが、やっと自立して社会へ出られる喜びの方が大きかったのです。
 最後に、研修生の仲間一人ひとりのメッセージが書かれた小さなノートを受け取りました。それぞれのあたたかなメッセージに感動しながら読んでいると、最後のページに彼からのメッセージが書かれていました。
「芳実ちゃん、あなたにはいつも癒やしと元気をもらいました。あなたは僕の天使です。本当にどうもありがとう。だから帰ってしまうのがものすごく寂しい。もっと一緒にいたい。でも心から応援し、幸せを祈っています」
 私はこの時、初めて彼の気持ちに気づきました。
 彼は音楽が大好きで、脳腫瘍になる前は、東京で仲間とバンドを組んでいたというだけあって、とても格好いい人でした。しかも誰に対しても優しくて、研修生の中ではアイドル的な存在だったので、私に向けられている視線が特別なものだとは思いもしなかったのです。でも思い返せば、私も彼と話す時間が一番楽しかったのでした。
 かといって、どうしたらいいのか分からず、彼とは最後にメールアドレスの交換をし、これからも連絡を取り合う約束をして、私は愛知県に帰りました。
 愛知に帰って間もなく、さっそく彼からメールがきました。なんでも東京に一時帰宅するついでに、名古屋に行ってみたいので案内してほしいとのことでした。私は少しびっくりしましたが、せっかくなので「いいよ」と返事をしました。
 二人で名古屋の街を歩くのはとても不思議な気持ちでした。そして本当に楽しくて、心から楽しんでいる自分も不思議でした。一緒にいて、こんなに心地いい人は初めてだと思いました。一日中名古屋のいろんな場所をめぐって、帰る時間になり、彼を見送るため新幹線の改札へ一緒に行きました。
 そのとき私は今まで感じたことのない寂しさに襲われました。そして、「私は彼とずっと一緒にいたい。私はこの人が好きなんだ」という心の声を感じたのです。あまりにもその声をはっきりと感じたので、私は突然その場で彼に打ち明けてしまいました。
 彼は信じられないという表情で言葉を失っていましたが、お互いの気持ちを分かり合えたことがうれしくて、私たちはお付き合いをすることになりました。
 彼も間もなく宇治での研修生活を終えて、東京に戻り、治療を再開することになっていたので、私たちは愛知と東京での遠距離恋愛ということになりました。
 この時、私は彼の病気は必ず治ると思っていました。宇治にいた三カ月の間に、不治の病の人が治る話をたくさん聞いていたし、実際に何度も目の当たりにしたからです。「治るからこそ、私たちはこうして出会ったのだ」と信じて疑いませんでした。
 ところが、東京に戻った彼の病状は少しずつ悪化していたのです。
『白鳩』4月号30〜31ページ

出会いを聞かせて

[タイトル]
彼と出会い、
本当に愛することを知った

飯田芳実

第4回

[本文]
 お付き合いをすることになったものの、宇治別格本山の研修生活を終えて東京に戻ってからの彼は、自宅療養と通院で治療に専念していました。愛知県に住む私と彼が頻繁に会うのは難しく、電話で話すのが日課のようになっていました。それでも好きな人と毎日話せるのは嬉しくて、次はいつ会えるだろうかと思うとわくわくしました。
 ところが、約束をしていた日に彼の体調が思わしくなくて会えないということが何度か続きました。彼の元気な姿しか見たことがなかった私は、外に出られないほど体調が悪いということがとてもショックでした。
 電話での彼の声は元気がなく、ただ「ごめん」と言うだけでした。私は彼の病気の状況を何も知らずに、ただ「必ず治る」と信じて毎日祈っていましたが、弱っているように感じられる彼のそばにいてあげることもできず、苦しくなりました。
 私はそんな「現象」に振り回される自分ではいけないと、再び宇治の練成会を受けました。そこで彼の状況をよく知っている講師にすべてを打ち明けました。講師は、宇治に来たときの彼がすでに死の宣告を受けていたこと、元気に研修生活を送れたこと自体が奇跡だったことなどを教えてくれました。そして、「本当に彼を愛していますか。もし半端な気持ちで好きなだけなら、お別れしなさい」とも仰いました。
 私は激しく落ち込んで家に帰りました。講師から言われた言葉を思い返し、「私は本当に彼を愛しているのだろうか」と自問自答しました。もし私が、単に「格好いい」とか「経済力がある」とかで好きになったのなら愛しているとは言えないけれど、彼の正直で真っすぐな心や計算のない思いやりに私は惹かれたのだ。だから、たとえ病気が治らないとしても私は彼についていこうと思いました。
 この時から私は祈り方を変えました。
「どうか彼が一番幸せになるように導いてください」
 これが「愛している」ということなのではないかと感じながら祈りました。でも、心は穏やかではありませんでした。本当は彼が治ることを願っていたからですが、それは私の「我の願い」なのかもしれないと思ったのです。
 ある時、彼からメールが来ました。「緊急入院することになった」というのです。私はショックを受けましたが、あまり深刻ぶらずに東京の病院へお見舞いに行くことにしました。
 久しぶりに会った彼は治療の副作用からか、顔がすこし腫れていましたが、いつもどおりの優しい彼でした。たいした話をするでもなく、ただ一緒にいただけでしたが、とても貴重な時間に思えました。そして彼は「退院したら、また一緒に出かけよう」と言ってくれました。私はそれが現実になってほしいと心から思い、後ろ髪を引かれる思いで病院をあとにしました。
 お見舞いから三カ月ほどたったある朝、彼のお母さんからメールが来ていました。そこには彼が今朝早く亡くなったこと、とても穏やかな最期だったこと、そして私への感謝の言葉が綴られていました。彼はまだ二十六歳という若さでした。宇治で出会って一年も満たないうちに、彼は逝ってしまったのです。
(つづく)
『白鳩』5月号30〜31ページ

出会いを聞かせて

[タイトル]
いのちは生き通しであると教えてくれた彼

飯田芳実

第5回

[本文]
 初めて心から好きになった人を病で失った私は、なぜ彼と出会ったのだろう、なぜこんなに早く逝ってしまったのだろうと、毎日呆然としながら泣いていました。生長の家で、あれほど「いのちは永遠生き通し」と教えられていても、喪失感はどうすることもできませんでした。
 せめて記憶だけでも大事に留めておきたいと思い、彼と出会った日のことから詳細にノートに綴っていました。泣きながら一気に書いたノートは十数ページにわたりました。
 そこには宇治別格本山で生き生きと輝いていた彼の姿がありました。ふと「彼は、幸せだったんだ」という思いが心に浮かんできました。亡くなるわずか一年前に、宇治で「人間・神の子」の真理に出合い、家族に心から感謝し、たとえ短くとも私と愛を育む時間を過ごすことができた彼は、幸せだったと初めて思えたのです。まるで彼がそばにいて、私に語りかけてくれているように感じました。
 私はこの文章を彼のご両親に送りました。宇治での彼を知らないご両親に、生き生きとした彼の姿を伝えたかったのです。息子の三年間の闘病を支え、二十六歳の若さで失ったご両親の悲しみは、私とは比べものにならなかったと思います。ご両親は「息子は幸せだったと分かって本当に嬉しい」と手紙に書いてくださいました。この思い出や悲しみを彼のご両親と共有することで、私も少しずつ心が落ち着いていきました。しかし、彼への思いがあまりにも強く、「結婚なんてしなくても構わない。ずっと彼を想って生きていこう」と思っていました。
 彼が亡くなって一年後、私は東京・原宿にある生長の家本部に勤めることになりました。彼を失った悲しみから完全には立ち直っていなかったものの、新しい仕事や生活に慣れるのに必死で、悲しみに溺れることは少なくなっていきました。そして彼の故郷でもある東京で暮らすうちに、彼の死を通して自分が体験したことを客観的に見つめられるようになっていきました。彼は私に、純粋に愛することや感謝することの大切さ、いのちは生き通しであることを身をもって教えてくれたんだと、感謝の気持ちが湧いてきたのです。
 この体験を何かの形で表現したいと思った私は、思い切ってブログを開設することにしました。彼との思い出や亡くなった時のこと、その後の私の正直な思いや彼のご両親との手紙のやり取りなどを綴っていったのです。不思議なほどすらすらと書けて、彼も一緒に書いてくれていると確信しました。
 ブログの公開は勇気のいることでしたが、思わぬ反響がありました。それは、私と同じように大切な人を失った人たちからでした。未だ悲しみを抱え、表現できず堪えていた何人もの方が、私のブログを読むことで、悲しみを初めて共有することができた、心が癒やされたと言ってくださったのです。
 私自身もブログを書くことで、この体験の意味がわかり、心が癒やされました。さらに彼への執着も手放すことができ、温かく見守ってくれる兄のような存在に感じられるようになりました。私の心境が変化すると環境にも変化が起きました。新たな出会いが、お膳立てされたようにやってきたのです。(つづく)
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