ひでちゃんのこと。
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合掌 ありがとうございます
先日は楽しいすばらしい時間をありがとうございました。
又、すばらしい“思い出”をありがとうございました。
私たちは秀和とのきびしい時間の思い出が強くて、不自由なからだでけんめいに生きた日々の様子ばかりが思い出されて、かなしくてたまらなかったのですが、こんなに元気で可愛くて聡明な女の子に出会って、輝くような日々を過ごしていたんだということがわかって、一つ一つ情景が見えるようにわかって、本当に嬉しいです。
秀和の人生が幸せに満ちていたんだとわかって、本当に嬉しいです。
芳実ちゃんからいただいた“思い出”は私たち夫婦、秀和の兄妹にとっても一番の宝物です。
そうそう芳実ちゃんが来てくれた日に大きく咲いたシャクヤクですが、次の日にはさらに大きくなって、ユリの花と同じくらいになって、ピンクの花だったのがぞうげのような金色にかがやいていました。
秀ちゃんが喜んでるんだなあと思いましたよ。
芳実ちゃんからいただいた白いお花はまんまるに開いて、花ざかりになって、あれから十日間くらいもずっと咲いていました。
おそくなりましたが、MDに録音した“真理の吟唱”同封します。
(談話コーナーなどにでかけていって、毎日読んでいました)
秀ちゃんが大事にしていたプリクラの写真お送りします。
(はしっこの一枚、記念にいただきました)
秀ちゃんの大好きな宇治に夏には行きたいと願っています。お会いできたら嬉しいです。
前後になってしまいましたが、秀和の四十九日もすんで“お返し”に若い方々には「理想世界」を送らせていただこうと考えていましたが、それをお伝えする葉書がなかなか気持ちがまとまらなくて、何を書いたらよいか、秀和に教えてねと頼んでいたところ、山口先生が書いてくださった「ネットワーク宝蔵」が来ました。
そして芳実ちゃんからお手紙が来て、その同じ日に清水さんからも来たのです。
秀和が伝えてきたんだなあと思い、別紙のような葉書ができました。
おかげさまで、やっと93軒の方々にお送りすることができます。ありがとうございます。
どうぞお元気でお過ごしください。また、いらしていただけるとうれしいです。
合掌 再拝
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「満面の笑みの秀君が僕の頭の中や心に浮かんできます。
秀君が高き世界で唯々“よろこびそのもの”として“よろこんでよろこんで”生きているという想いをすごく感じます。
僕らの前にいた明るい人気者の秀君そのままが存在しているのを感じます。
秀君から貰った優しさと勇気が今も心の中で響いています」
「ひでちゃんの最後の春をあの宇治の地で一緒に過ごせたこと、
まるで何かにひきよせられるように出会ったことを、
やはり偶然ではなかったのだと思います。
ひでちゃんと過ごした日々は私にとってもかけがえのない宝物です」
秀和が逝ってしまってから三カ月が経とうとしています。
辛くて怖くて悲しくて悔しい三年間の厳しい闘病でした。
秀和はその間一言も弱音を吐かなかった。
私たちにそれ以上の辛い思いをさせないための優しさでした。
秀和は強い子でした。
冒頭は昨年入退院の合間に京都宇治の生長の家練成道場で研修生として学んだ時の仲間たちから、最近送られてきた手紙の一部です。
秀和は宇治で「生命は生き通し」を学び、「おれの天使はここにいる」と言えた彼女もできました。
秀和のお葬式の時に本当にたくさんのお友達が来てくださって私たちはとても驚きました。
学校でもバイト先でも、秀和の周りはいつもこんなにたくさんのお友達がいて、秀和を愛してくださっていたんだと感無量でした。
肉体から放れ、もう自由自在になった秀和はまたいつも通りみんなを愛し、明るく語っているようです。「お返し」といってはなんですが、秀和が宇治で学んでいた雑誌を、5回分ですが送らせて頂こうと考えました。
時々は思い出してやってくださると嬉しいです。
皆様のご健康とご活躍を祈念いたしております。
平成19年5月 小竹秀和の父母より
私が上京したのは平成20年の4月、ひでちゃんが亡くなって一年が過ぎたころでした。
きっかけは当時働いていた愛知県教化部で、東京にある本部で職員を募集しているらしいというのをちらりと聞いたことでした。
なぜかその時猛烈に
「行きたい」
と思ってしまったのです。
優柔不断な私が、数ヵ月後には東京にいました。
なぜあんなに猛烈に「今行かなければ」と思ったのか。
なぜ今さらひでちゃんのいない東京へ行くのか。
正直に言えば、生長の家のお役に立ちたいだとか、教えを広めたいだとか、そんな志はかけらもなかったのです。
ただ「今東京に行かなければいけない」という直感だけだったように思います。
東京に来て驚いたのは、私の生活圏内にひでちゃんとの思い出の場所がやたらとあるということでした。
寮のすぐ近くに
一緒に入った映画館
一緒にプリクラを撮ったゲームセンター
一緒にごはんを食べた店。
あの時はひでちゃんと迷いながら歩いていた道が、今ではしょっちゅう歩く道です。
職場のある原宿もそうです。
一緒に歩いた明治神宮の参道、竹下通り。
今でもありありと思い出せるのです。
これはどういうことなんだろうと上京した当初は戸惑いました。
なぜわざわざ思い出だらけの場所に来てしまったんだろうと思いました。
でも今思うのは、東京にいてひでちゃんとの思い出を追うことは、私にとってつらいことではなく、むしろ幸せなことだということです。ひでちゃんが「忘れる必要ないよ」と言ってくれてる気がするのです。今も一緒にいるんだと実感できるのです。
人から見たら不幸に感じるかもしれません。でも私は自分を不幸だと思ったことはありません。誰かが「さびしいけれど悲しくはない」と言うのを聞きましたが、本当にそうだなと思います。
悲しくはありません。
ただ、肉体として存在していないのを時折さびしいと思うだけです。
声を聞きたい
姿を見たい
もう一度触れたい
そう思うとさびしいです。
なかなかこの感情をぬぐうことはできません。
でも彼は何度も存在を示してくれたし、
大きな愛情を注いでくれたし
私は彼に愛されたことを最高に誇りに思っています。
私は誰よりも幸せ者だと思います。
表面の心はすぐに波風たちますが
確かに私は幸せです。
東京に来て、じっくり彼との思い出に浸って、そう思うようになりました。
もし、あなたのそばに、大切な人を失った人がいたら
どうぞ、何も言わずにその人のそばにいてあげて下さい。
その人がもし何かを語り出したら、静かに聞いてあげて下さい。
それは言葉にならない涙かもしれません。
誰にぶつけていいのか分からない怒りかもしれません。
後悔かもしれません。
懐かしい思い出かもしれません。
繰り返し、繰り返し、その人は語るでしょう。
同じことを何度も、何度も。
あるいは泣き続け、叫び続けるかもしれません。
その人のそのままをただ見てあげてください。
必要ならそのあなたの肩をかしてあげてください。
その人の悲しみを理解しようなどと、思う必要はありません。
その人を何とか立ち直らせようとする必要もありません。
あなたがただそばで寄り添って聞いてあげるだけで、
その人はおのずと理解します。
ひとつ感情を解放するごとに、ひとつ癒されます。
もしあなたが、大切な人を失ったのなら、
とにかく涙が枯れるまで
泣いて、泣いて、泣きつくして下さい。
怒りを感じたなら、その怒りをそのまま表現してください。
よい子になってはいけません。
抑えてはいけません。
無様に、ぐちゃぐちゃになって泣いていいのです。
涙は必ず止まる時がきます。
静かに受け止められる時がきます。
だから、今はひたすら悲しみを、怒りを、無念を表現してください。
悲しみを表現し、解放されたあとに残るのは、その大切な人とあなたとの間にある豊かな愛情です。
愛情や想いは大切な人を失った後にも続いているということに気づきます。
時間はかかるかもしれません。
時間をかけていいんです。
きっと何にも代えがたい大事なものを得ていたことに気づくでしょう。
空をみてたら おひさまと
流れていく白い雲
ぽかぽか陽気につつまれて
平和に生きている
空をみてたら おもいだす
今までのできごと
ひとりじゃ とても 生きられない
そんな日々だった
そばにいてくれた みんなの おかげです
ありがとう
夜空をみてたら かんがえる
あしたは どんな日か
きらきら 輝く星みてる
ゆめがあふれる
きっと 今日よりすばらしい
そんなあしたでしょう
そばにいてくれた みんなの おかげです
ありがとう
空をみてたら ときには
台風の日もある
じぶんのこころの中でも
嵐の日もある
でも そんなときにはいつだって
ささえてくれる ひとがいる
大丈夫 心配しないで
じぶんを嫌わないで
どしゃぶりなんかに まけるな
みんながいるから
どしゃぶりなんかに まけるもんか
みんながいるから
空をみると 雨あがり
きれいな 虹がでて
庭の花だんをふとみると
はながさいていた
ひでちゃんが病気になる前
バンドを組んでいたころに作った詩です。
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