ひでちゃんのこと。
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『白鳩』7月号30〜31ページ
出会いを聞かせて
[タイトル]
あまりにも早い展開。
しかし迷いは全くなく結婚に
飯田芳実
第7回(最終回)
[本文]
職場で出会った警備員の飯田尊博さんに想いを伝えたいという気持ちが大きくなった私は、思い切って手紙を書くことにしました。それは告白というよりも感謝の手紙でした。
毎日元気に出勤して、すばらしい笑顔で接してくれたこと、亡くなった彼の話を静かに聞いてくれたこと、おかげでどれほど私の心が慰められ、毎日楽しくなったかなど、丁寧に書いていきました。
年賀状を出したいからと聞き出した自宅の住所宛にその手紙を送りました。しかしその直後の職場で顔を合わせる勇気はなく、お正月だったこともあり、私は休暇をとって実家に帰省してしまいました。
実家に帰省してすぐに飯田さんから電話がかかってきました。そして、自分も同じ気持ちだと言ってくれたのです。私は改めてこの出会いは亡くなった彼の導きだと思いました。そして私は、飯田さんとお付き合いすることになりましたが、まだ「結婚」ということは意識していませんでした。ただ、「いい時期がきたら自然とそういう話になるのかな」という程度でした。
ところが、その「時期」は意外と早くやってきました。きっかけはつきあって三カ月がたったころに起きた東日本大震災でした。その日はたまたま二人とも休日で、一緒に出かけていたとき、突然あの地震が起きたのです。地面や目の前のビルが大きく揺れ、私がパニックで泣きそうになっているのを、飯田さんは冷静に対処してくれました。元自衛隊員というだけあって、それは見事なものでした。あの時ほど「守られている」と感じたことはありませんでした。
当時私は九階にある部屋に住んでいて、度重なる余震の恐怖で自分の部屋で眠ることができなくなってしまいました。そんな私を見かねた飯田さんは「一緒に住んだほうがいい」と言ってくれました。そして話し合った結果「一緒に住むのなら結婚しよう」ということになったのです。あまりにも早い展開でしたが、私の中に迷いは全くありませんでした。
突然の結婚話に両親はとても驚いていましたが、本当に喜んでくれました。そして私たちは平成二十三年十一月に、たくさんの方々に祝福されて、結婚式を挙げることができました。
また、夫も生長の家に興味を持ってくれ、昨年四月には、二人で宇治別格本山の短期練成会を受けることができたのです。初めて宇治の練成会を受けてから約六年、このようなかたちで再び練成会を受けることができて、本当に嬉しく思いました。
うつ状態になって宇治別格本山へ行ったのも、大事な人との死別も、すべて私に必要な「導き」だったのだと思えるようになりました。どんな悲しいことであっても、いつも守られていて、その先には光だけが待っていると感謝の心で受けとめられるようになったのです。
二人での生活に最初は戸惑うこともありましたが、結婚して一年半がたち、なにがあっても一人ではないという安心感が生まれました。好きだった絵も今ではギャラリーで個展やグルー展を開いたり、『いのちの環』誌で連載も持てるようになり、夫も応援してくれています。
これからもすべてに感謝しながら、幸せな家庭を築いていきたいと思います。
出会いを聞かせて
[タイトル]
あまりにも早い展開。
しかし迷いは全くなく結婚に
飯田芳実
第7回(最終回)
[本文]
職場で出会った警備員の飯田尊博さんに想いを伝えたいという気持ちが大きくなった私は、思い切って手紙を書くことにしました。それは告白というよりも感謝の手紙でした。
毎日元気に出勤して、すばらしい笑顔で接してくれたこと、亡くなった彼の話を静かに聞いてくれたこと、おかげでどれほど私の心が慰められ、毎日楽しくなったかなど、丁寧に書いていきました。
年賀状を出したいからと聞き出した自宅の住所宛にその手紙を送りました。しかしその直後の職場で顔を合わせる勇気はなく、お正月だったこともあり、私は休暇をとって実家に帰省してしまいました。
実家に帰省してすぐに飯田さんから電話がかかってきました。そして、自分も同じ気持ちだと言ってくれたのです。私は改めてこの出会いは亡くなった彼の導きだと思いました。そして私は、飯田さんとお付き合いすることになりましたが、まだ「結婚」ということは意識していませんでした。ただ、「いい時期がきたら自然とそういう話になるのかな」という程度でした。
ところが、その「時期」は意外と早くやってきました。きっかけはつきあって三カ月がたったころに起きた東日本大震災でした。その日はたまたま二人とも休日で、一緒に出かけていたとき、突然あの地震が起きたのです。地面や目の前のビルが大きく揺れ、私がパニックで泣きそうになっているのを、飯田さんは冷静に対処してくれました。元自衛隊員というだけあって、それは見事なものでした。あの時ほど「守られている」と感じたことはありませんでした。
当時私は九階にある部屋に住んでいて、度重なる余震の恐怖で自分の部屋で眠ることができなくなってしまいました。そんな私を見かねた飯田さんは「一緒に住んだほうがいい」と言ってくれました。そして話し合った結果「一緒に住むのなら結婚しよう」ということになったのです。あまりにも早い展開でしたが、私の中に迷いは全くありませんでした。
突然の結婚話に両親はとても驚いていましたが、本当に喜んでくれました。そして私たちは平成二十三年十一月に、たくさんの方々に祝福されて、結婚式を挙げることができました。
また、夫も生長の家に興味を持ってくれ、昨年四月には、二人で宇治別格本山の短期練成会を受けることができたのです。初めて宇治の練成会を受けてから約六年、このようなかたちで再び練成会を受けることができて、本当に嬉しく思いました。
うつ状態になって宇治別格本山へ行ったのも、大事な人との死別も、すべて私に必要な「導き」だったのだと思えるようになりました。どんな悲しいことであっても、いつも守られていて、その先には光だけが待っていると感謝の心で受けとめられるようになったのです。
二人での生活に最初は戸惑うこともありましたが、結婚して一年半がたち、なにがあっても一人ではないという安心感が生まれました。好きだった絵も今ではギャラリーで個展やグルー展を開いたり、『いのちの環』誌で連載も持てるようになり、夫も応援してくれています。
これからもすべてに感謝しながら、幸せな家庭を築いていきたいと思います。
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