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ひでちゃんのこと。
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『白鳩』4月号30〜31ページ

出会いを聞かせて

[タイトル]
彼と出会い、
本当に愛することを知った

飯田芳実

第4回

[本文]
 お付き合いをすることになったものの、宇治別格本山の研修生活を終えて東京に戻ってからの彼は、自宅療養と通院で治療に専念していました。愛知県に住む私と彼が頻繁に会うのは難しく、電話で話すのが日課のようになっていました。それでも好きな人と毎日話せるのは嬉しくて、次はいつ会えるだろうかと思うとわくわくしました。
 ところが、約束をしていた日に彼の体調が思わしくなくて会えないということが何度か続きました。彼の元気な姿しか見たことがなかった私は、外に出られないほど体調が悪いということがとてもショックでした。
 電話での彼の声は元気がなく、ただ「ごめん」と言うだけでした。私は彼の病気の状況を何も知らずに、ただ「必ず治る」と信じて毎日祈っていましたが、弱っているように感じられる彼のそばにいてあげることもできず、苦しくなりました。
 私はそんな「現象」に振り回される自分ではいけないと、再び宇治の練成会を受けました。そこで彼の状況をよく知っている講師にすべてを打ち明けました。講師は、宇治に来たときの彼がすでに死の宣告を受けていたこと、元気に研修生活を送れたこと自体が奇跡だったことなどを教えてくれました。そして、「本当に彼を愛していますか。もし半端な気持ちで好きなだけなら、お別れしなさい」とも仰いました。
 私は激しく落ち込んで家に帰りました。講師から言われた言葉を思い返し、「私は本当に彼を愛しているのだろうか」と自問自答しました。もし私が、単に「格好いい」とか「経済力がある」とかで好きになったのなら愛しているとは言えないけれど、彼の正直で真っすぐな心や計算のない思いやりに私は惹かれたのだ。だから、たとえ病気が治らないとしても私は彼についていこうと思いました。
 この時から私は祈り方を変えました。
「どうか彼が一番幸せになるように導いてください」
 これが「愛している」ということなのではないかと感じながら祈りました。でも、心は穏やかではありませんでした。本当は彼が治ることを願っていたからですが、それは私の「我の願い」なのかもしれないと思ったのです。
 ある時、彼からメールが来ました。「緊急入院することになった」というのです。私はショックを受けましたが、あまり深刻ぶらずに東京の病院へお見舞いに行くことにしました。
 久しぶりに会った彼は治療の副作用からか、顔がすこし腫れていましたが、いつもどおりの優しい彼でした。たいした話をするでもなく、ただ一緒にいただけでしたが、とても貴重な時間に思えました。そして彼は「退院したら、また一緒に出かけよう」と言ってくれました。私はそれが現実になってほしいと心から思い、後ろ髪を引かれる思いで病院をあとにしました。
 お見舞いから三カ月ほどたったある朝、彼のお母さんからメールが来ていました。そこには彼が今朝早く亡くなったこと、とても穏やかな最期だったこと、そして私への感謝の言葉が綴られていました。彼はまだ二十六歳という若さでした。宇治で出会って一年も満たないうちに、彼は逝ってしまったのです。
(つづく)
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『白鳩』5月号30〜31ページ

出会いを聞かせて

[タイトル]
いのちは生き通しであると教えてくれた彼

飯田芳実

第5回

[本文]
 初めて心から好きになった人を病で失った私は、なぜ彼と出会ったのだろう、なぜこんなに早く逝ってしまったのだろうと、毎日呆然としながら泣いていました。生長の家で、あれほど「いのちは永遠生き通し」と教えられていても、喪失感はどうすることもできませんでした。
 せめて記憶だけでも大事に留めておきたいと思い、彼と出会った日のことから詳細にノートに綴っていました。泣きながら一気に書いたノートは十数ページにわたりました。
 そこには宇治別格本山で生き生きと輝いていた彼の姿がありました。ふと「彼は、幸せだったんだ」という思いが心に浮かんできました。亡くなるわずか一年前に、宇治で「人間・神の子」の真理に出合い、家族に心から感謝し、たとえ短くとも私と愛を育む時間を過ごすことができた彼は、幸せだったと初めて思えたのです。まるで彼がそばにいて、私に語りかけてくれているように感じました。
 私はこの文章を彼のご両親に送りました。宇治での彼を知らないご両親に、生き生きとした彼の姿を伝えたかったのです。息子の三年間の闘病を支え、二十六歳の若さで失ったご両親の悲しみは、私とは比べものにならなかったと思います。ご両親は「息子は幸せだったと分かって本当に嬉しい」と手紙に書いてくださいました。この思い出や悲しみを彼のご両親と共有することで、私も少しずつ心が落ち着いていきました。しかし、彼への思いがあまりにも強く、「結婚なんてしなくても構わない。ずっと彼を想って生きていこう」と思っていました。
 彼が亡くなって一年後、私は東京・原宿にある生長の家本部に勤めることになりました。彼を失った悲しみから完全には立ち直っていなかったものの、新しい仕事や生活に慣れるのに必死で、悲しみに溺れることは少なくなっていきました。そして彼の故郷でもある東京で暮らすうちに、彼の死を通して自分が体験したことを客観的に見つめられるようになっていきました。彼は私に、純粋に愛することや感謝することの大切さ、いのちは生き通しであることを身をもって教えてくれたんだと、感謝の気持ちが湧いてきたのです。
 この体験を何かの形で表現したいと思った私は、思い切ってブログを開設することにしました。彼との思い出や亡くなった時のこと、その後の私の正直な思いや彼のご両親との手紙のやり取りなどを綴っていったのです。不思議なほどすらすらと書けて、彼も一緒に書いてくれていると確信しました。
 ブログの公開は勇気のいることでしたが、思わぬ反響がありました。それは、私と同じように大切な人を失った人たちからでした。未だ悲しみを抱え、表現できず堪えていた何人もの方が、私のブログを読むことで、悲しみを初めて共有することができた、心が癒やされたと言ってくださったのです。
 私自身もブログを書くことで、この体験の意味がわかり、心が癒やされました。さらに彼への執着も手放すことができ、温かく見守ってくれる兄のような存在に感じられるようになりました。私の心境が変化すると環境にも変化が起きました。新たな出会いが、お膳立てされたようにやってきたのです。(つづく)
『白鳩』6月号30〜31ページ

出会いを聞かせて

[タイトル]
新たな恋の始まり

飯田芳実

第6回

[本文]
 亡くなった彼との思い出や、その後の正直な思いをブログに綴って半年ほどたち、彼への想いを解放することができた私は、心が軽くなり、自分の生活を楽しめるようになりました。
 私が働いていた生長の家本部では、警備会社の方が夜間の施設警備にあたっています。私はその警備員さんたちの出退勤の管理を任されました。
 平成二十二年四月、新しい施設警備員の方が来ることになりました。その方が初出勤された時、あまりにも明るい笑顔に驚きました。挨拶の声もさわやかで、周りの空気が一気に明るくなるようでした。それは、亡くなった彼と初めて会った時と同じくらいの衝撃でした。生長の家のことは何も知らず、仕事のために派遣された警備員さんでしたが、昔から生長の家の信徒なのではないかと思うほどの明るさだったのです。
 私は一気にその人に惹きつけられてしまいました。
 その警備員さんは元自衛隊の三十五歳で、八歳も年上でしたが、不思議なほど波長が合い、よく仕事の合間に会話するようになりました。私は毎日夕方に出勤してくるその方を心待ちにするようになりました。
 ある日、その方が、
「何かこの生長の家の本でいいものはありますか?」
 と尋ねてきました。
 生長の家に興味を持ってくれたのだろうかと思い、どんな本がいいのか詳しく聞いてみると、
「実は最近、自衛隊で一緒だった同期の友人が癌で亡くなったんです。その友人の奥さんが非常に落ち込んでいるので、元気になれるような本があれば送ってあげたいんです」
 と言ったのです。
 大切な友人だったようで、その時の表情はとても辛そうでした。私は自分も励まされた本をいくつか紹介し、自分の体験も少しお話しました。自分と似たような境遇の人の役に立ちたいとずっと思っていたので、「ぜひその奥様に紹介してあげてください」と以前書いた私のブログのこともお話しました。
 私の話に驚いたようでしたが、「ありがとうございます。すぐ奥さんに伝えます」と言ってくれました。
 その後、本を買って、すぐにその友人の奥様に送ってあげ、私の体験ブログのことも紹介したと言ってくれました。決して自分からは話すことのない体験を、話すきっかけを得たことに、私はとても驚きましたが、少しでも自分の体験が役に立てたことがとても嬉しかったです。
 私は毎日、その警備員さんのことばかり考えていることに気づきました。こんなことは前の彼が亡くなってからはなかったことでした。いつのまにか私は、その方のことが本当に好きになっていたのです。
 ある日道を歩いていると、ふと脳裏に、「もしかしたら亡くなった彼が、出会わせてくれたんじゃないか」という考えが浮かび、急速に確信へと変わっていきました。それは不思議なほどしっかりとした確信でした。
 でもその方の気持ちはどうなのか、私には分かりませんでした。どんな人にも明るく優しく接している人のなので、私もその中の一人なんだろうな……というのが本当のところでした。
 しかし、この想いを伝えたいという気持ちが抑えられなくなった私は、ある行動をとったのです。(つづく)
『白鳩』7月号30〜31ページ

出会いを聞かせて

[タイトル]
あまりにも早い展開。
しかし迷いは全くなく結婚に

飯田芳実

第7回(最終回)

[本文]
 職場で出会った警備員の飯田尊博さんに想いを伝えたいという気持ちが大きくなった私は、思い切って手紙を書くことにしました。それは告白というよりも感謝の手紙でした。
 毎日元気に出勤して、すばらしい笑顔で接してくれたこと、亡くなった彼の話を静かに聞いてくれたこと、おかげでどれほど私の心が慰められ、毎日楽しくなったかなど、丁寧に書いていきました。
 年賀状を出したいからと聞き出した自宅の住所宛にその手紙を送りました。しかしその直後の職場で顔を合わせる勇気はなく、お正月だったこともあり、私は休暇をとって実家に帰省してしまいました。
 実家に帰省してすぐに飯田さんから電話がかかってきました。そして、自分も同じ気持ちだと言ってくれたのです。私は改めてこの出会いは亡くなった彼の導きだと思いました。そして私は、飯田さんとお付き合いすることになりましたが、まだ「結婚」ということは意識していませんでした。ただ、「いい時期がきたら自然とそういう話になるのかな」という程度でした。
 ところが、その「時期」は意外と早くやってきました。きっかけはつきあって三カ月がたったころに起きた東日本大震災でした。その日はたまたま二人とも休日で、一緒に出かけていたとき、突然あの地震が起きたのです。地面や目の前のビルが大きく揺れ、私がパニックで泣きそうになっているのを、飯田さんは冷静に対処してくれました。元自衛隊員というだけあって、それは見事なものでした。あの時ほど「守られている」と感じたことはありませんでした。
 当時私は九階にある部屋に住んでいて、度重なる余震の恐怖で自分の部屋で眠ることができなくなってしまいました。そんな私を見かねた飯田さんは「一緒に住んだほうがいい」と言ってくれました。そして話し合った結果「一緒に住むのなら結婚しよう」ということになったのです。あまりにも早い展開でしたが、私の中に迷いは全くありませんでした。
 突然の結婚話に両親はとても驚いていましたが、本当に喜んでくれました。そして私たちは平成二十三年十一月に、たくさんの方々に祝福されて、結婚式を挙げることができました。
 また、夫も生長の家に興味を持ってくれ、昨年四月には、二人で宇治別格本山の短期練成会を受けることができたのです。初めて宇治の練成会を受けてから約六年、このようなかたちで再び練成会を受けることができて、本当に嬉しく思いました。
 うつ状態になって宇治別格本山へ行ったのも、大事な人との死別も、すべて私に必要な「導き」だったのだと思えるようになりました。どんな悲しいことであっても、いつも守られていて、その先には光だけが待っていると感謝の心で受けとめられるようになったのです。
 二人での生活に最初は戸惑うこともありましたが、結婚して一年半がたち、なにがあっても一人ではないという安心感が生まれました。好きだった絵も今ではギャラリーで個展やグルー展を開いたり、『いのちの環』誌で連載も持てるようになり、夫も応援してくれています。
 これからもすべてに感謝しながら、幸せな家庭を築いていきたいと思います。
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