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ひでちゃんのこと。
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件名 ひでちゃん
 
本文 今朝4時49分に神様のところにいきました。
   天使でした。
   3日お通夜4日告別式です。
   家族とお友達だけの式をしたいです。
   よろしければおいでいただけるとうれしいです。
 
 
2007年2月28日の朝、ひでちゃんのお母さんからメールがきました。
天気のいい朝でした。
メールを見て真っ先に
 
「ああ、自由になった」
 
と思いました。
 
そのあとはどうしたのか、宇治で一緒に研修生をした友達に私が電話したのか、電話がかかってきたのかわすれましたが、放心状態でそのことを話したような気がします。
 
一瞬のうちにひでちゃんと出会った日から今日までの記憶が駆け巡り、しばらくの間その場で座り込んでぼんやりしていました。
 
4日、お葬式。
行ける?私。
ひでちゃんのお葬式なんて。
無理だ。絶対無理だ。
耐えられるはずがない。
 
涙も出ず、そんなことを考えていたら、
同じ愛知県に住む友達の岡田くんから電話がかかってきました。
 
「なんか俺んとこにも直接メールきたんだけど」
「誰から?」
「小竹君のお母さん」
「ひでちゃんが岡田くんのメルアド知ってるはずないよ」
「俺も教えた覚えないし、だいいち小竹君と話したこともないし」
 
ひでちゃんのお母さんは、彼のケータイのアドレスを見ながら自分のケータイで彼が亡くなった知らせを送ってくれていました。岡田君も宇治で研修生をしていましたが、ひでちゃんとは全く時期がかぶっていませんし、顔を合わせたことはあっても話したことはなく、ましてメルアドを教え合う仲でもありませんでした。
 
「私だって教えてない」
「なんでだろう。おかしい・・」
 
しばらくそんなことを言っていましたが、不意に岡田くんが言いました。
 
「4日だろ。一緒に行くよ」
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3月4日は快晴でした。
3月とは思えないほど暖かくてコートがいらないくらいでした。
ニュースでは「今日は5月上旬並みの気温です」と言っていました。
 
岡田くんと名古屋駅で待ち合わせ
新幹線のホームで東京行きの新幹線を自由席の乗り場で待ちました。
京都経由で来たであろう「のぞみ」が入ってきました。
 
新幹線が私たちの前で止まり、ふと車内の座席をみると私たちの目線の先に清水さんが座っていました。
私はひでちゃんが亡くなった知らせを聞いてから、清水さんとはまだ連絡をとっていませんでした。
 
「あ、やっぱりね」
 
岡田くんが言いました。
 
清水さんは岡田くんとも、私やひでちゃんとも一緒に研修生をした仲間でした。
 
3人一緒に座り、東京へ向かいました。
なにを話したのかは覚えていません。
私はまだ放心していたのかもしれません。
 
洗面所で鏡に映った自分の顔がなんだか歪んでいるような気がしました。
 
東京へ着き、告別式の会場がある駅に向かうため在来線に乗り換えたら、同じ車両にまた一緒に研修生をした仲間のきこちゃんが乗っていました。
 
気づいたら4人で告別式の会場へ向かっていました。
駅に着いて、改札を降りたらひでちゃんのお母さんが一人で待ってくれていました。
私は思わず走って駆け寄り、ひでちゃんのお母さんの手を握りました。
そこでその日初めて涙が出てきました。
 
「私はよしみちゃんを待っていたのに、たくさんのお友達が一緒だったんだね」
と一緒に来たみんなを見て言いました。
 
雑居ビルの建物の中の一つに大きな看板があって、よく見るとそれはひでちゃんの葬儀の看板でした。
なんだか信じられない思いで建物に入りました。
 
小さな部屋にひでちゃんのお父さん、お兄さん、妹さん、そして箱に納まってしまったひでちゃんがいました。
 
ひでちゃんのお父さんが私の肩に触れて言いました。
「あなたがいなかったら、ひでの人生はどんなに寂しいものだったろう」
 
ひでちゃんの顔は安らかでした。
出会った時のままの顔でした。
でもそこにひでちゃんはいませんでした。
 
「あー空っぽだ・・」
 
体は道具に過ぎないということを初めて理解した瞬間でした。
ひでちゃんは今どこにいるんだろう。
 
ひでちゃんのお母さんが泣きながら話してくれました。
ゆうべ眠っていたら夢だったのかどうかわからないのだけれど、
あたたかい光が降ってきて、体をマッサージしてくれたように感じた。
生命って光なんだと感じたと。
ひでちゃんが教えてくれたと。
 
ひでちゃんは入院中、薬の副作用で顔が腫れていて、亡くなった直後も腫れたままだったそうです。
 
亡くなった日に、たまたま宇治の先生と職員の人が東京に来ており、連絡を受けてすぐかけつけてくれたそうです。
 
連絡をしてくれたのは岡田くんでした。
 
ひでちゃんが亡くなって最初に駆けつけてくれたお二人は、彼の霊前で聖経を読んでくれたそうです。
 
そうしてしばらくしたら、ひでちゃんの顔の腫れが引いていたというのです。
 
私が見た時はちゃんと、出会った時のままのかっこいいひでちゃんでした。
 
葬儀の間、ずっとうつむいてひでちゃんが今どこにいて何をしているのか考えていました。
きっとこの様子を切なそうに見ているんだろうな。
家族のそばに寄り添っているんだろうなあ。
 
最後お別れの時間に一人ずつ花をお棺に納めていきました。
私はひでちゃんの顔をちゃんと見て
「ありがとう」
と言い、足元に自分がずっと使っていた聖経を入れました。
 
そのあとあっと言う間にひでちゃんは運ばれ、黒い車に乗って行ってしまいました。
 
外はあまりにも晴れていました。
まるで春の陽気でした。
私の歪んでいた顔はもとに戻っていました。

いっぱい泣いてしまうのかな
その場に崩れ落ちてしまったらどうしようと
思っていましたが
大勢の人が涙を流す中、
なぜか涙はあまり出ませんでした。
 
ちゃんとひでちゃんの卒業を見届けることができたことに、
ほっとしたような、不思議な気持ちでした。
 
ひでちゃんが今日、私をここまで連れてきてくれたんだということを理解しました。
 
もし一人で愛知から東京まで行けと言われても、無理だったでしょう。
岡田くんが「一緒に行くよ」と言ってくれなかったら私は自分の家から一歩も出ることはできなかったでしょう。
 
その岡田くんのケータイになぜ直接メールが入ったのか。
メールを送信したはずのひでちゃんのお母さんもよく分からないと言っていました。
岡田くんにメールが行かなければ、たまたま東京にいた先生たちのところにその日のうちに連絡が行くこともなかったかもしれません。
 
ひでちゃんがいろいろと手配してくれていたんだと思います。
 
葬儀のあと、みんなでごはんを食べました。
食欲はありませんでしたが食べました。
 
清水さんが別れ際に
「二人ともきれいだよね」
 
と言いました。
最初はよく理解できませんでした。
私とひでちゃんのことを言ったようでした。
 
「きれい」という言葉はこういう時にも使うのかと
人ごとのように聞いていましたが
ずっとその言葉が胸に残ってリピートしていました。
 
「ああ本当に、きれいだったな」
と私も思いました。
 
清水さんが行ってしまったあと
私と岡田くんときこちゃんで皇居まで行きました。
なんとなくまだ帰りたくなかったので。
 
明るい日差しも、風も、揺れる木も、空も、鳥も
すべてがひでちゃんだと思いました。
 
私の中で時間がゆっくりと流れていました。
 
思い出を追うでもなく、先のことを考えるでもなく
今のすべてがひでちゃんだと感じました。
それをただ感じていました。
 
皇居のお堀には鳥がたくさんいました。
白鳥もいました。
私たちはゆっくりとお堀の周りを歩きました。
 
一羽の白鳥がずっと私たちの後をついてきました。
 
私はずっとその白鳥を見ていました。

 Image082.jpge8259573.jpeg
 

「別れの日の記憶」に書いた私の様子は、ずいぶん冷静な表現になりましたが、
冷静だったのではなくて、ショックが大きくて思考回路がうまく回っていなかったのだと思います。
恋人のお葬式に冷静でいられるばずがありません。
顔が歪んでいたのはそのせいだと思います。
 
あの時は、感情がうまく表現できませんでした。
だから、思いっきり泣いたり叫んだりができませんでした。
今思うと、ずいぶん周りの人たちは気を使ってくれていたんだなあと思います。
帰りの新幹線で私は何かぽつぽつと、岡田くんにずっとひでちゃんのことを話していました。
たぶん、朦朧としながら。
聞いている岡田くんはきっとしんどかっただろうなあ。
本当にありがとう。
 
その後の私は、自分の身に起こったことで心も頭もいっぱいで、ほかのことに目を向ける余裕が全くありませんでした。
そのせいで、なかなか人の言葉に耳を傾けることができず、慰めの言葉も、励ましの言葉も、受け入れられずに反発し、怒りの感情でいっぱいになってしまいました。
 
感情がはっきりしてくると、毎日毎日泣くようになりました。
怒りの感情も様々なものに向けられました。
私も死んでしまいたいと思うこともありました。
 
でもそれは必要な時間でした。
 
頭で理解するのは早いですが、心で理解するのは時間がかかるのです。
 
それで良かったのだと思います。
 
彼はその間ずーっと、私を助けてくれていました。
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